この1週間は、話題のGuinnessとSEEDAによるBeefが勃発したりして、僕の周りでは「HIPHOPとは?」だったり
「B-BOYとは?」ということを考えさせられたって人も多いみたい。僕もバリバリHIPHOP現場第一線の人間では無いものの、
この一件に関してはついついチェックせずにはいられずにいました。
そんな中、Beefとは全然別件なんですが飛び込んできたのがこんなニュース。
「TVでブレイクダンス披露したおじいちゃん、障害者手当を停止される」
http://
73歳で足の不自由なB-BOYおじいちゃん”フレッド・バウアーズ”さんがテレビでブレイクダンスを披露したら、国が「なんだ元気ジャン」
ってことで障害者手当てを停止されてしまったというニュース。
実際にYoutubeでテレビの模様を検索してみたら、まぁ、動きは年相応というか、
HIPHOPカルチャーにどっぷりってわけではないんだろうなって感じではあるんだけれども、
記事中でフレッドおじいちゃんが言ってることにはめちゃくちゃB-BOYイズムを感じてしまいました。
曰く、「私は闘い続ける。国は私にダンスを止めさせることはできないさ」「障害は今も残っていて、長い距離を歩くことはできない。それでも、
踊ることはできるんだ。ダンスの時は、頭や背中をたくさん使うのさ。」
ここでガツンと来たのは、フレッドおじいちゃんにとっての「戦い続ける」ということが、国に陳情したり、訴訟を起こす事ではなく
「踊り続ける」ことだということでした。
このパンチラインから連想したのは、例のBeefにおけるSEEDAのラストアンサーの一節、
「オレを殺してもお前はオレの音楽には勝てないさ」というリリックと、それに添えたブログのエントリーでの「俺は音楽のbeefを、
対談も含め音楽以外の形でしたくない。」という言葉です。
B-BOYで有り続けるということは、どこまで「自分」と「世界」の間に”HIPHOP”を介在させつづけることができるか?
ということではないでしょうか。
揉め事において、自分の主張を相手に思い知らせるためには実際のところRAPである必要はまったくありません。
議論の場を設けて普通に納得がいくまで普通に話すことも出来るし、極論を言えば腕力でだまらせることも可能です。しかし、
そうなるともうこの話題はその時点でHIPHOPトピックスとして扱う必要は無くなり、
ある種のリングアウトともいうべき状態になってしまうでしょう。
もちろんHIPHOPの在り方の一つとしてはギャングスタスタイルと、
それに順ずるTHUGなメンタリティは確実に存在し1つのアートフォームとさえなっていますが、
ヒップホップ史に於いてもTHUGなメンタリティの暴走によって対象と対象の間に「HIPHOP」
が介在しえなくなってしまった結果としては、2PACとThe Notorious
B.I.Gという2つの才能を永遠に帰らぬものにしてしまいました。
個人的にはTHUGなメンタリティは、表現のための力の源泉として有効であると思います。それはあくまで源泉であり、
それをHIPHOPと化学反応させることでアートに昇華することこそが重要でしょう。
ギャングスタであろうがその他のどんなスタイルであろうが、B-BOYっていうのは Rhymesterの言葉を借りるならば”
この旗のもと忠誠を誓”っているか否かなんでしょう。
今回のBeefに於いて勝ち負けというものがあるのかどうかは分かりませんが、
もし有るとするならばそれは主張の正当性もさることながらトラックや押韻、
フロウの巧稚以上にHIPHOPというリングにどこまで立ち続けるかという気がします。
主張の正当性というものは得てして玉虫色なわけですし。 SEEDAのラストアンサーに対するGuinnessの回答が待たれるところです。
今回のBeefの流れをまとめてあるサイト↓
http://
2009年06月18日
この1週間考えたこと
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